ABOUT ME

-

Today
-
Yesterday
-
Total
-
  • 拉致家族と元死刑囚 会談内容
    과거...../nhk 2009. 3. 13. 21:47

    韓国を訪れていた拉致被害者の田口八重子さんの家族は、大韓航空機爆破事件の実行犯、キム・ヒョンヒ元死刑囚との面会を果たし、11日夜、帰国しました。家族は、空港内で記者会見し、今回の面会でキム元死刑囚との間でどのようなやりとりがあったのか詳しい内容を明かしました。

    拉致被害者の田口八重子さんの兄の飯塚繁雄さん(70)と八重子さんの長男の飯塚耕一郎さん(32)は、11日、韓国のプサンでキム元死刑囚と面会しました。その後、帰国の途についた2人は、11日午後10時すぎに羽田空港に到着し、空港内のホールで記者会見を行って、面会の詳しい内容を明かしました。2人の話によりますと、およそ1時間半の面会の間、キム元死刑囚はずっと日本語で話し、通訳の必要はありませんでした。キム元死刑囚の日本語は、学校の先生が教えるようなことばではなく、日常の話しことばのようで、語尾に「ね」をつけるところが、八重子さんが教えていたことを感じさせたといいます。面会の冒頭、キム元死刑囚は、耕一郎さんに向かって「お母さんは大丈夫だから」などと熱心に語り続け、40分ほどたってようやく「わたし1人しゃべりすぎですね」とわれに返ったということです。八重子さんとの暮らしについてキム元死刑囚は「生まれ育ちが違っていても、いっしょに暮らした20か月間、非常に人間的に純粋なつきあいができ、まったく心を許せる関係だった」と話しました。自由のない生活の中で、2人でハイヒールをはいて散歩に行き、途中で足が痛くなって泣きながら招待所まで帰ったことがあるなどと当時のことを楽しそうに話していたということです。そして、まるで姉妹のように暮らしていたので、いわば「お姉さん」の息子である耕一郎さんを見て「ほんとうにうれしい」と繰り返していたということです。キム元死刑囚は、1983年に八重子さんと離れて暮らし始めますが、その後の八重子さんの消息について、「離れて暮らすようになって何か月かたったあと、指導員から「顔だけ見せてやる」と言われ、八重子さんの顔を一度見たことがある」と話しました。さらに、工作員養成コースの同期生の女性工作員から聞いた話として、「八重子さんは、1984年まで、この工作員と横田めぐみさんとの3人で、同じ招待所で生活していた。その後、どこかに連れて行かれたと聞いている」などと明かしたということです。八重子さんが「生きている」と考える根拠については、北朝鮮について重要な情報を持っているため、生きていてもなかなか帰せないのではないかと話しました。北朝鮮が「八重子さんは交通事故で死亡した」と説明していることについても「死亡したとされる場所は自動車が通るようなところではなく、交通事故が起こるはずはない」などと否定的な考えを示しました。また、キム元死刑囚は「日本に来ませんか」と2人からの誘いに対し、明確な返答をしなかったということで、自分を監視している韓国の情報当局などに配慮しているようにも感じられたということです。こうした話を続けるうちに1時間半の面会時間が過ぎました。キム元死刑囚は、面会の最後、耕一郎さんに対して「わたしが韓国のお母さんになってあげる」と話したということです。キム元死刑囚との対話は、2人にとって満足なものだったということで、耕一郎さんは、元死刑囚に見せようと、持参していた「へその緒」や「母子手帳」を見せるのも忘れて話を続けていたということです。面会を振り返って、耕一郎さんは「いちばん感じたのは彼女の優しさで、おえつをもらし涙を流す彼女の姿にうそ偽りはないと思った。短い時間だったので、また会いましょうと約束しました。この喜びをほかの拉致被害者家族とも分かち合い、われわれだけで止めるのではなく、発展させなければならないと心の底から感じた」と話しました。また、飯塚繁雄さんは「北朝鮮の元工作員と拉致被害者の家族が面会できたことは、歴史的な瞬間とも言え、日韓両政府が拉致問題に取り組む、よいきっかけになったのではないかと思う」と述べました。


Designed by Tistory.